どうにもならない日

こんなはずじゃなかった2020年からの生きる記録

記憶していることを

いまは2020年、6月も10日が過ぎた。

Googleフォトを開いたら1年前というカテゴリが目についてなんとなく開いてみる。

もう何年も写真はほぼ子どもしか撮っていない。出先で何か撮っておきたくなったような場面でもそこに必ず子どもがいる。

案の定開かれた1年前のアルバムは子どもの姿ばかりだった。やってることも姿形も、今とそんなに変わらないなという印象になんだかホッとしてしまう。

普段は何年前とかその比較とか、まず見ない。

そうして子どもの成長をまざまざと見せつけられた時のダメージが大きいから。

子どもに対して客観的になれないから、この頃の時間の流れと変わった今の毎日を、子はどう思っているのかな楽しく思えてるのかな、とか子どもの二度と戻らない日を勝手に憂いたり、逆にその間も変化がなさ過ぎた自分を嘆いたりしてしまう。

 

4月から、しばらく世界の時が止まった。

私を取り巻く社会なんて、ほぼ子育てに関する場所でしかないけれど、それでも同じ空の下にいるわけで、この世界にある脅威を同じだけ私も感じていたと思ってる。

でもその感染恐怖のことを一旦置いといてみれば、正直この状況で気持ちにゆとりがもてた。動くな、待て、と言い渡されて、誰もが一時停止をするしかなくて、平等に何もできない時間がそこにあって、何もしないことこそ正義のようで、そんな自分を肯定していいなんて。それは、写真を見返すだけで子どもへの対応と、変化のない自分への罪悪感に苛まされるような私にはあり得ないことだった。史上最悪のコロナによって、心が少し健康になった時間もあった、まずはそんな数ヶ月を振り返る。